市民の側から環境破壊を問う

〜千葉の干潟を守る会と外環反対連絡会が30周年記念行事〜




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 「千葉の干潟を守る会」と「外環反対連絡会」はともに2001年、30周年を迎えました。両団体はその記念行事として、2002年4月13日、「市民から問う環境破壊」と題する講演とパネル討論を船橋市海神公民館で50名の参加者を得てひらきました。

 講演の最初は、「千葉の干潟を守る会」の大浜清さんです。
 翌4月14日は、諫早湾水門が閉め切られてちょうど5年目。亡き山下弘文さんは、水門が閉め切られたとき「これで勝ったと思った」と言った。そのとおり、ギロチンは効果を発し、日本国民の環境への意識は一変した。しかし、水しぶきは、あらゆる生き物を殺し、潮汐さえも変えてしまった。そこには東京湾の教訓はみじんもなかった。そのうえ、ムツゴローが大事か、人が大事かと次元の低い論争を展開させた。1970年代、東京湾でも“鳥か人か”と言われたことがある。今、「諫早湾の水門を開けろ」という声が高まっている。次は諫早湾から私たちが学ぶ番である。臨海開発をやめ、何を再生するかを考えるときである。我々に求められているのは、開発した海を元に戻し、ラムサール登録地にすることである。私たちは、埋め立てゼロという夢をかなえた。しかし、夢の実現までには30年かかった、と静かな口調で話し始めました。
 干潟を守る運動は、千葉の干潟を守る会以前には、現在の行徳野鳥観察舎友の会の蓮尾純子(旧姓古川)さんたちがとりくんでいた。そして蓮尾さんたちから、「保護区になって良かったですね、と言われるが、保護区は東京湾埋め立ての免罪符にしてしまったのでないか」と言われたことと、「次は習志野の番ですね」と言われたことが、大浜さんたちを立ち上げさせるきっかけを決心させた。そこでは、「生き物の棲む東京湾、私たちの東京湾」をめざし、よりめのはげ坊主のポスターづくりをしたことなどがいきいきと語られた。が、運動は遅れて出発したので、目の前の海は埋め立てられてしまった。その悔しさが谷津干潟保全、湾岸道路の移動、そして三番瀬の運動につながった、と訥々(とつとつ)と話しかけました。

 次の講演は「外環反対連絡会」の高柳俊暢さんです。
 1970年の後半に、市川、松戸外環連合から運動は始まりました。76年に制作されたNHKの教育テレビ「地方自治と住民」のビデオが上映され、若いお父さん、お母さんが40メートル幅、8車線の道路に驚きの声をあげている様子が映されました。こちらも長い長い歴史が見てとれました。
 高柳さんは、「この外環道路はできない」と元気良く語りました。その理由は、わずか10キロメートルの道路に1兆4000億円も使うことは財政的に許されないこと、また東京大気汚染裁判の判決がこの7月に出されるが、「クルマ依存社会」を見直す世論が高まりつつある今日、勝ち取ることができるのでないか。さらに、外環の計画路線には、国分谷と呼ばれる旧石器時代の谷に沿っている遺跡があり、縄文時代の大木や落ち葉、木の実、玉虫と、東京湾の歴史も自然だけでなく、人間を含めた環境が分かることで、丹念に調査をすれば20年はかかるとのこと。ましてや、縄文時代の遺跡に加えて、昭和の遺跡?(高谷ではダイオキシン)も発見されている。手を着けることはできないのではと。

 お二人の話に「三番瀬を守る署名ネットワーク」の竹内壮一さんが加わってのパネルディスカッションでは、街づくりのあり方や都市の水循環、車優先社会の弊害などが話されました。
 ことに「運動してきたことの損得?」では、お二人とも「家庭をあまり省みられなかったこと」をあげ、得したということでは「さまざまな人と知り合えたこと」をあげていたのが印象的でした。
 信念をもって運動をしていく。これが一番大事と思いました。

(牛野くみ子)




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