「干潟を守る」運動は何をめざしてきたか

〜三番瀬の埋め立て計画中止とこれからの課題〜

千葉の干潟を守る会  大浜 清



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■三番瀬埋め立て計画中止の意義

 千葉県による三番瀬埋め立て計画がついに中止された。
 三番瀬埋め立て計画とは、「市川2期地区計画」と「京葉港2期地区計画」を合わせた、市民による通称である。いずれも1993年に基本計画が提出され(合計740ha)、市民による反対運動の結果、99年に7分の1に縮小(計101ha)されて、今回、0(ゼロ)となった。市川2期地区は土地造成のための埋め立てで、470ha→「90ha+人工海岸」→0haとなった。京葉港地区は港湾拡張計画で、270ha→11ha→0haとなった。

 埋め立て計画解除にともない、港湾拡張、流域下水道処理場、第二湾岸道、都市計画などの諸公共事業計画は、すべて根本的変更または中止を余儀なくされた。

 2001年3月の選挙で「三番瀬計画白紙撤回」を公約して当選した堂本暁子千葉県知事は9月26日、県議会で次のように述べた。
 「地域住民の意見をまとめると、『三番瀬は東京湾に残された貴重な自然であり、その干潟を守り、自然を再生すべきである』というものである。これをふまえ、これから具体的な計画の策定に入ってゆく。そのため、101haの埋め立ては行わないことを再度明確にする」
 1957年以来の千葉県の臨海開発政策は、ここに終止符を打たれたといえよう。それは30年にわたる「干潟を守れ」「埋め立て反対」という市民運動の成果といえよう。


■三番瀬の自然

 三番瀬は、東京湾奥部江戸川デルタ東部の浦安、市川、船橋、習志野各市の埋め立て地によって囲まれ、南は湾に向かって開いた浅海域である。水深5m以浅が1650ha、うちlm以浅は1140ha、干潟は140haの面積をもつ。

 砂質を主体とするこの広い干潟と浅瀬は、東京湾の原風景の名ごりをとどめている。アサリを主とする貝類、ガザミ、イシガニ等の甲穀類、ハゼ、ボラ、スズキをはじめとする各種の魚類の産卵、生育場であり漁場である。ここで生まれたイシガレイは三浦半島から相模湾へ、ここで育ったアユは江戸川から利根川へと旅立ってゆく。外洋からはイワシ、アジが回遊してくる。沖合一帯はノリの好漁場である。

 干潟はシギ類やチドリ類、アジサシやコアジサシの集団渡来、生育地であり、シベリアとオーストラリア間の渡りの基地である。海面では、冬は数万羽のスズガモが、また通年、数千から1万のカワウが採餌している。

 こうした大量の鳥類、魚類を養っているのは豊富な底生動物、プランクトン、小型甲穀類などであり、これらの生物群が、藻類、バクテリアとともに、東京湾の水質浄化に大きな寄与をしている。また、船橋側は海浜公園、潮干狩場として市民の海へのふれあいの場となっている。

 そのような三番瀬の自然環境をおびやかす最大要因は周辺の埋め立てによる海洋環境損失であり、とくに埋め立て用の土砂採取跡(浚渫跡)から発生する青潮(貧酸素水塊)である。


■埋め立て計画の経過

 千葉県による大規模埋め立て計画は、1957年に市原五井地区から開始され、60年代後半には、浦安─富律間、東京湾内湾の浅瀬、干潟全域が計画対象となった(面積1万5200ha)。

 現在三番瀬とよばれる海域は、市川地区と京葉港地区計画の一部であった。両地区の埋め立ては1968年に着工されたが、73年春、環境悪化と反対市民運動を受けて、2期部分1020haが着工見送りとなり、同年秋に始まる石油ショックによって着工の見通しは失われた。

 80年代に入り、中曽根内閣の民活路線、地価高騰政策に乗って、千葉県は再び埋め立ててを画策した。約10年かかって、93年に市川二期地区と京葉港二期地区の計740haの「基本計画」を提出した。しかし、時すでに土地バブルは崩壊しつつあった。

 千葉県は93年の計画提出に先立ち、92年に千葉県環境会議を設置し、両地区計画の審議をゆだねた。環境会議は95年、県に対し、(1)三番瀬の自然環境と埋め立ての影響について生態系を中心とする補足調査を行うこと、(2)土地利用の必要性を吟味すること、(3)専門委員会を設置すること──を提言した。

 補足調査は96−99年の3年間、6億円を投じて行われ、98年設置の計画策定懇談会に提出された。補足調査は、食物連鎖、水質浄化機構等の調査研究を通じて、三番瀬の自然がかけがえのない価値をもつこと、埋め立ててのもたらす影響は東京湾にとって回復しがたいものとなることを立証した。

 計画策定懇談会は、企業、行政、議会等多数の開発推進派を含んでいたが、補足調査の科学的論証と自然保護団体代表の一貫した保全主張を崩せなかった。また、土地利用の必要性を明らかにすることもできなかった。県は99年計画を101haに縮小し、「必要最小限」の埋め立ててであるとしたが、なお合意は得られず、2000年に環境会議に戻し、さらに1年間審議した。しかし、埋め立て発進の結論には至らなかった。2001年に沼田知事が去り、計画は次の知事にゆだねられた。

 「補足調査」および「土地利用の必要性の検討」は、開発計画に対する「計画アセスメント」の役割をはたした。これによって千葉県は、財政破綻の渕にかろうじて踏みとどまった。これは日本の環境行政上、先進的な例を開いたものといえる。

 2001年3月の知事選では「三番瀬計画」が最重要争点となり、撤回2、検討2、継続1のそれぞれの候補者のうちから、白紙撤回に与する堂本氏が当選した。


■市民運動の経過

 1967年に結成された「新浜(しんはま)を守る会」は、行徳埋め立て(市川一期計画)に対する異議申し立てを行い、1000haの鳥獣保護区設置を要求した。新浜は当時、広大な湿地と干潟で日本最高の野鳥渡来地となっていた。この運動は80haの行徳保護区を残し、最初の埋め立て反対運動として日本の自然保護運動に大きな影響を与えた。しかし外部からの運動であり、地権者の大きな抵抗にあった。

 71年3月に結成された「千葉の干潟を守る会」は、自然保護の市民運動化を図った。単なる野鳥生息地でなく「干潟」が保護すべき対象として初めてかかげられた。海と陸の交わる干潟がいのちのゆりかごであること、干潟を生態系の場としてとらえるべきこと、干潟の浄化作用などによって人間環境が支えられていることが主張された。また、そこは漁業の重要な基盤であり、市民の海に親しむ場であった。

 「生きものの住む東京湾」を守ろう、「海は私たちのもの」と、会は市民によびかけた。市民無視のうちに、共有の海が奪われ、そこに棲む無量大数の生きものが皆殺しとなり、公害発生源である工場と道路に変わっていくのを許してよいか、と訴えた。

 自然観察会、市民集会、ニュース……。海辺に入居して数年の団地住民が立ち上がった。工事強行によって怒りはさらに燃え上がり、「東京湾の干潟保全、埋め立て中止」国会請願が提出され、採択された(1972、73年)。

 千葉県は衆院公害環境特別委員会との懇談の後、73年2月に大規模埋め立て抑制を発表した。画期的な方針転換であった。これによって、市川二期、京葉港二期両地区約1020ha は埋め立て着工が見送られ、今日の三番瀬を残すこととなった。また木更津北部地区(盤洲、小櫃川河口域)は計画解除され、富津地区は縮小となった。

 市民運動はその後、谷津干潟の埋め立て反対、自然教育園設置へと向かうが、ここでも湾岸道路反対運動と一体となって大きな成果をあげた。

 80年代に埋め立て計画が再開すると、市民は直ちに立ち上がり、勉強会や学者、法律家を含む東京湾保全法制定要求などをおこした。

 93年3月に三番瀬埋め立て計画が発表されて以降、運動は次第に高まった。だが、世論を動かす力の不足が痛感された。

 行政は「三番瀬」を禁句とした。市民は埋め立て計画についても、三番瀬という海の存在についても知らなかった。

 96年2月、私たちは「三番瀬の埋め立て計画撤回」を求める署名運動を開始した。行政が知らせようとしない開発計画について私たちが市民に知らせ、三番瀬の貴重さと、それを失うことの意味を考えてもらい、そして一人ひとりの意思を表明してもらうことがそのねらいであり、三番瀬をラムサール条約のもとに保全しようとよびかけた。
 しかし、運動は早速つまずいた。一部の人が署名運動に反対し別れていった。「計画の撤回や埋め立て中止は、県が到底受け入れず、今後、県と円滑な話し合いができなくなる。また、署名の結果、“市民の意思”に縛られてしまうのは受け入れられない」という理由であった。

 私たちは、運動の再建をより広い市民の中に置くことにした。自然保護団体だけでなくレジャー団体(つり、ヨット、ハンググライダーなど)、地域住民団体(団地自治会など)、消費者団体(協同組合、有機農業グループなど)、労働組合(県、市職員、教員など)に加盟をよびかけた。多数の個人の市民が熱心に活動を展開し、三番瀬の名は急速に広まった。2001年10月現在、署名数は29万6000を超えた。
 計画策定をくいとめたのにも、堂本知事が「白紙撤回は県民の意思です」と答弁したのにも、30万署名は動かしがたい重みとなったことは疑いない。

 「東京湾をこれ以上埋めるな」「干潟を守ろう」というよびかけは、市民をしっかりとらえた。そして、諫早の水門閉め切りは、私たちが訴え続けてきた埋め立てのむごたらしさを、全国民の目に焼きつけてくれた。
 また、私たちは現場の労働者や技術者の協力のもとに埋め立て理由をつきくずすことに力をそそいだ。

 私たちは、正確な経済予測、需要予測を持たない港湾拡張計画の無謀さを明らかにし、中止に追い込んだ。

 流域下水道処理場建設に対しては、干潟の浄化能力を破壊し、既設公共下水道処理場を廃止するそのムダ、下水処理量の過大予測と処理能力の過小評価、莫大な予算浪費、処理水による汚染と水の一回きりの大量使いすてを批判し、水の循環と再利用の理念にもとづく計画の分割再編成を提案した。これに賛成する市長も現れた。

 第二湾岸道路については、埋め立てによる建設は消え、高架式については環境庁が反対し、地下式はそれ以上の三番瀬破壊と莫大な経費が予想される。堂本知事は同道路推進について積極的発言をしており、ルート変更、陸上案もほのめかしている。しかし、当地はすでに自動車道過密地帯であり、計画廃止と交通体制の再建を要求している。

 私たちは、すべての埋め立ては、本来、陸の上で解決すべき計画であった、と主張する。陸の上では困難だから、迷惑だから、費用がかかるから、あるいは逆に埋め立てればもうかるから、という理由には何一つ正当なものはない。海の中の最も貴重な部分、国民のあらゆる生きものの共有財産を永久に破壊する理由にはならないし、益はない。そして、陸の上の計画を正しい姿に改めるのは、埋め立てをやめると決意したときに始まる。


■これからの三番瀬

 堂本知事の今後の三番瀬政策には、なおいくつかの問題点がある。
 「101ha計画の撤回」という表現の中に不透明部分が感じられる。
 県議会、県職員の中の埋め立て推進派は、今後も抵抗を試み、巻き返しをはかるだろう。

 これまでの臨海開発が海にも陸にも残した傷跡と歪みを修復しなければならない。漁業の支援やまちづくりのやり直しもその一つである。
 これについて堂本知事は、21世紀は保全から再生への時代であるとして、「里海の再生」を唱える。そして自然再生事業を住民参加と情報公開でつくる、これが「千葉方式」であると言う。

 しかし、私たちは「里海再生」に警戒をいだいている。まず「里海」という概念が明確でない。次に「再生」は自然がすでに死んだか、死に瀕しているかが前提であろう。三番瀬はすでに死に瀕している、というのは埋め立て推進派のためにする論理であった。

 94年に登場した「新三番瀬計画」は、「三番瀬は死んでしまったから埋めて、代わりに沖に新漁場を造ってもらおう」という、企業庁が漁協幹部を抱きこんで言わせた論である。
 101ha案になると行徳漁協は、猫実川河口部はヘドロ化してノリやアサリに害をおよぼすからもっと埋めろ、と言い、市川市が同調した。東海大の学者が行徳漁協の依頼で、埋め立てて「理想の水際線」をつくる提案をしている。

 また、署名運動に反対したグループは、ミチゲーション(代償措置)のための人工干潟、埋め立ててを含む「環境保全開発」を唱え、101ha埋め立ては理想的な計画案だと迎合したが、現在もなお環境保全開発の名で自然再生型公共事業に食いこもうとしている。
 この人々は「里海の再生」を自分たちのものにと動いている。それが新しい衣装をまとった開発でない保証はない。

 私たちは考える。「再生」は生命の領域、自然の摂理に属することで、人間の行為ではない。人間は、自分の行った破壊の修復、復元にいそしむべきである。自然の摂理と力と時間を尊重し、生かさなければならぬ。
 だから、私たちは提案している。干潟の保全が先決である。生物多様性を守るには干潟の環境の多様性を守らなければならない。

 海の中では、埋め立てのために行った浚渫(土砂採取)跡を修復して、青潮という埋め立て後遺症を絶つべきである。
 埋め立てという最大の破壊に対しては、できる限りのスペースの埋め立て地を、干潟または塩性湿地、内陸湿地にもどしてゆきたい。それによって臨海開発によってゆがめられたまちづくりと陸地の生理機能も修復に向かうのである。

 最後に、東京湾全域を一つの水域として、その浅海域をラムサール条約登録湿地にしたい。谷津と三番瀬はそのいとぐちである。

(2001年11月)  




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