住民の命や漁業よりも大企業が大事

〜水俣病と千葉の埋め立て〜

中山敏則

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 「本州製紙水質汚染と水俣病」の中で、水俣病についてこう書きました。
    《水俣病の場合は、企業(チッソ)も政府も熊本県も、長年にわたって、チッソのメチル水銀(有機水銀)が原因であることを否定しつづけました。医学界の権威者のほとんども水俣病を認めませんでした。
     一部の学者が、チッソの工場排水が水俣病の原因であること明らかにしました。それでもチッソは操業を止めなかったのです。また、政府(経済企画庁、通産省)も、水俣病の原因が工場排水だと知っていたのに、水銀に関する水質規制や排水停止の措置をとりませんでした。チッソの排水はそのまま垂れ流されることになったのです。》


 担当官僚の告白


 政府は水俣病の原因が工場排水だと知っていたのに、なんの対策も講じなかった──。その事実は、当時の担当官僚自身が告白しています。
    《漁民たちも工場の操業中止を強く求めるようになっていたが、国は法律で水質を規制したり、行政指導で排水を停止させることには踏み切らなかった。
     井上ら水産庁の担当者は、このころチッソの幹部を呼んで、「非常に被害が広がって社会問題となっているから、お宅の工場とは断定しないけれど、工場の操業をいったん止めて、各工程ごとの排水を採らせてほしい」と要請した。
     しかし、水産庁はチッソを行政指導する立場にはなく、チッソ側は、「うちの排水が原因とは思っていない」と要請を突っぱねた。
     水産庁は、各省庁の連絡会議の場でも、水俣に限らず全国的に水質規制を早く進めるよう主張した。
     だが井上は、会議のあと通産省の官僚から、こう諭されたという。
     「井上さん、そう頑張んなよ。口で言うほど簡単なことじゃないんだ。日本は貿易立国でいくんだよ。だから沿岸は汚してもしょうがないじゃないか。外国の沖へ行って魚をとったらいいじゃないか」
     当時、経済企画庁の水質保全課には、課長補佐として汲田卓蔵(現在72歳)が通産省から出向し、対策の原案を練っていた。水質保全課はまだできたばかりで、経済企画庁の生え抜きは少なく、主に通産省をはじめ厚生省、建設省、農林省などからの出向組で構成され、毎晩のように議論をして対策を検討していた。
     汲田も、水俣病の原因は工場排水だと思っていた。
     「ほんとに患者さんがたくさんおられましてね。因果関係はもう明らかなんですよ、はっきり言って。僕はそう思ったです、個人的に。現に水銀出してるんだから。無機水銀が有機水銀にどうやって変わったかという学問的なトレースはまだだっただろうけど、全く因果関係がないなんてことは言えなかったですよ」
     水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。
     「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」
     結局、経済企画庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。
     「あの当時人が亡くなったからすぐ止めろ、と言われても、僕は止められなかったな。そりゃあ命はね、工場の一つや二つじゃないということはわかるけどね。僕は止められなかったな。なにしろ僕は排水をストップさせるような原案をつくってないもの、はっきり言って。排水停止ということは工場ストップですからね。それをやれば、今までの指導が悪かったじゃないか、という議論になるでしょうな。指導が悪くたって最終的には工場の責任なんだけどね」
     と汲田は言う。
     チッソの社長だった吉岡喜一は、後に検察官の取り調べに対して、「通産省がもう少し強い行政指導をしてくれればよかったと思います」と、行政指導さえあれば、排水を止めたかのような供述をしている。刑事裁判の公判でも「原因確認ができなければ止められないと思っておりました。官庁からの指示があればこれは別でございますけれども」と証言している。
     汲田は、吉岡のこの発言に反発する。
     「そんな発言ないよ。経営者だもの。初めからわかっているならやればいい。人が言わなければ何を流してもいいのか、ということでしょ。僕ら武士の情けでやってやったんだ。操業を止めてみなさいよ。工場はすぐひっくり返っちゃうよ」  しかし、吉岡と西田元工場長に対する水俣病刑事裁判の、1979年3月の第一審判決(熊本地裁)は、執行猶予にした情状酌量の理由の一つとして、このように述べている。
     「監督行政官庁である通産省においては、同会社(チッソ)に対してなんら行政指導を行った形跡はうかがえないのであるが、その後のサイクレーター完成については、同省の助言により本来の完成時期よりきわめて早く完成するに至った経緯等にかんがみるならば、(中略)速やかに適切な行政指導をしておれば、被告人両名(吉岡と西田)においても、判示のような安易な態度に終始することはなかったであろう」
     通産省は、より強い対策を求める声が上がるたびに、「工場が原因かどうかはわかっていない」という主張を繰り返し、要求や要請を突っぱねた。汲田の言う「武士の情け」なのだろうか。そして、水俣病の問題が、チッソ以外の工場に波及することを恐れた。1959年11月10日には、アセトアルデヒドを製造している全国の工場に、排水中の水銀量や水銀の状態(金属水銀か無機水銀か有機水銀か)を報告するよう指示したが、その中で、
     「この調査は、水俣奇病問題が政治問題化しつつある現状に鑑み、秘扱いにて行なうことにしていますので、この旨御了知の上、社外に対しては勿論、社内における取扱いについても充分注意して実施されるよう希望致します」(「工場排水の水質調査報告依頼について」)
     と、神経質なほど気を遣っている。通産省が調査を指示した工場の一つから、後に新潟水俣病が発生することになる。  「高度成長期の真っ最中というか、はしりぐらいのところ、追いつけ追い越せの時代だったわけですよね。だから産業性善説ですよ、産業性善説。漁業が産業じゃないとは言わないけどね。時代がそういう時代だったんです。だから時代に負けて役人が何もしなかったじゃないか、と言われればもう謝るしかないんだ。ある程度わかってやってんだから。なんて言うのかな、『確信犯』だな、ある意味では。僕は確信犯だと思うね。そんなこと言うと怒られるけど」
     この汲田の言葉が、当時の官僚たちの姿勢を象徴しているのだろうか。》(NHK取材班『戦後50年その時日本は 第3巻 チッソ・水俣/東大全共闘』NHK出版)


 千葉県も同じ


 「工業化のためなら、海洋汚染もやむをえない」
 「すみやかに漁業から撤退し、転業されたい」
 「日本は貿易立国でいくんだよ。だから沿岸は汚してもしょうがないじゃないか。外国の沖へ行って魚をとったらいいじゃないか」
 ──こんなことを平気で言い放つのが日本の官僚です。

 これは千葉県庁の官僚も同じです。東京湾沿岸の広大な干潟が次々と埋め立てられていくなかで、石川敏雄さん(千葉県自然保護連合の初代代表)らが埋め立て抑制を要請した際、県幹部は次のように回答しました。
 「こんな干潟はどこにでもあり、そんな貴重なものではない」
 「もう内湾漁業の時代ではない。遠洋漁業の時代だから、干潟はもう必要ない」
 「千葉県は昔から貧乏だったから、工業化して儲けるのだ」
 ──と。

 そして、当時の友納武人知事は、東京湾三番瀬漁業からの撤退を船橋市漁協に迫りました。現在開会中の2010(平成22)年9月定例県議会の代表質問(9月3日)で、田中明議員(民主党)はこう述べました。
    《昭和38年(1963年)から昭和50年(1975年)まで千葉県知事を務めた友納武人氏は、「昭和50年代に東京湾漁業は海洋汚染が進み、終焉(しゅうえん)する」「すみやかに漁業から撤退し、転業されたい」と述べた。そして、昭和48年に、三番瀬海域での漁業権放棄を県と船橋市漁業協同組合の間で締結した。》

 当時の知事や県幹部(官僚)は、「工業化のためなら、海洋汚染もやむをえない」「内湾漁業は不要」を堂々と言い放っていたのです。


 千葉県は公害のはきだめ


 ですから千葉県は、日本の名だたる公害企業を次々と京葉臨海工業地帯に誘致したのです。水俣病をひきこしたチッソをはじめ、三島、沼津市(静岡県)のコンビナート誘致反対運動で追い出された富士石油と住友千葉化学、姫路市(兵庫県)で猛反対にあった出光石油、第二水俣病と騒がれた昭和電工などです。そのため、「千葉県は公害のはきだめ」とよばれました。
 そういう官僚の姿勢は、いまもまったく変わりません。

(2010年9月)





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